2005年04月23日

お守り

あれは24歳の時だった。246の用賀あたりだったと思う。信号で停止しているときにふと前の車を見ると初心者マークがついていた。運転席には自分より少し若そうな青年、助手席にはその青年の親父さんらしい人が座っていた。二人がどんな会話をしていたかはもちろん判らなかったが、二人とも笑顔で言葉を交わしていた。親父さんが息子のために用意したのかルームミラーにはお守りが掛かっていた。この光景を目にした時、目の前の親子がとても羨ましかった。自分も北海道にいれば、免許を取ったときに親父に横に乗ってもらい、一緒にドライブに行っただろうかとふと思った。しかし、それはもうかなわないことだった。その年に親父は53歳で他界していた。

80年代にサラ金地獄という言葉が流行したが、自分の家もサラ金地獄にさらされるなんて夢にも思っていなかった。当時、中学生3年生だった。親父は競馬、マージャンとギャンブルが好きだった。小学校に上がる前に、親父に動物を見に連れて行ってやるといわれて、幼くして死んでしまった弟と二人、競馬場に連れて行かれたことがあった。確かに動物はいた。馬しかいなかったけれど。馬が走るところを見ていてもすぐに飽きてしまい、弟二人で舞い散った馬券を集めて遊んだ。親父が雀荘でマージャンをしている横で寝ていた記憶も残っている。そして、自分が中3の時についに破滅した。親父は姿をくらまし、家には「お父さんいるか」という電話がかかってくるようになった。母と私と妹と末の弟の4人は社宅を出て、近くのアパートに引っ越した。

母の頑張りと親戚そして親父の会社の上司のおかげで、一家は最悪の事態にはならず、親父も戻ってきてなんとか普通の生活をおくれるようになった。高校生といえば、ただでさえ、親が鬱陶しい時期である。親父とはほとんど口を聞かなくなった。もちろん、一緒に出かけることもなかった。そして、大学進学のために自分は北海道を離れた。

大学では勉学ではなくて、山登りとバイトに打ち込み、充実した4年間があっという間に過ぎた。卒業式が終わった後、帰省した。親父を社会人の先輩と思ったら、親父の仕事の話を聞きたくなった。酒を飲まない親父は砂糖をたっぷり入れたインスタントコーヒーを飲みながら、喜んでいろいろ話してくれた。自慢話がうれしかった。自分の中に少し残っていたわだかまりが完全に消えた。2年後の夏、親父は倒れた。末期の肺がんだった。

こんな話を思い出したのは、今日、上の息子(6歳)が「パパ、お守りあげる」と言って、自分でメモ用紙に「こうつうあんぜんおまもり」と書いたものをくれたからだ。私は今40歳なので、上の息子が免許を取る頃には53歳ぐらいになっている。息子が運転する車の助手席に座ってドライブに出かけたいものだ。もちろん、ルームミラーには交通安全のお守りをぶら下げて。

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2005年02月23日

朝焼け

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山並みには雲が垂れ込め、どこも稜線がはっきりしない。雪も少し舞っていて少し寒い朝だ。

小学校の何年生だったろうか、宿題で朝日の写生をもっていくことになっていたのだろう、父に起こされて二人で出かけた。寒かったが雪が無かったので秋だったのだろう、斜面になった野原にならんで腰掛けて朝日をみたような気がする。私が描いている間、父は何をしていたのだろうか、隣でタバコでもふかしていたのかもしれない。野原にいる間や行き返りの道すがらにどのような言葉を交わしたかも全然覚えていない。今でも少し寒い朝に朝焼けをみると必ず思い出す。父との数少ない思い出の中でもお気に入りひとつだ。野原に腰掛けている二人の姿がまぶたに浮かぶと少しだけ目頭が熱くなる。

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